糖尿病の精密数理モデル[8]

PWCモデルを日本人に適用

このシリーズの そもそもの発端は,ケアネットのこの記事でした.

糖質制限or脂質制限、向いている食事療法を予測/京都医療センター|CareNet.com
米国糖尿病予防プログラム(DPP)やフィンランド糖尿病予防研究では低脂肪食が糖尿病に有効との報告がある一方で、糖質制限が減量に有効であるとの報告もある。それでは、目の前の患者さんにどのような食事療法を指導していけばいいのだろうか。  この問...

京都医療センター(旧 国立 京都病院)の坂根先生のグループの発表です.

この論文の概要については,日経メディカルのインタビュー記事で 坂根先生 ご自身が解説されています(全文を読むには,無料の会員登録が必要です).

糖質を減らすべきか脂質を減らすべきか、それが問題だ
あなたは脂質摂取量を2割減らしたならば、糖質は制限しなくても5~7%の減量を達成できますよ──。そんな食事療法のアドバイスができる日が近づいてきた。

『糖尿病の食事療法の効果には個人差があり,糖質制限食に向いている人と,脂質制限食に向いている人とがある』という内容なのですが,上記の記事では,PWC社のシミュレーションプログラム(記事中では 『Bodylogical』)を用いたとありますが,この記事だけでは詳細不明なので,記事中の引用文献(以下 「Chen 論文」と呼びます)をあたってみると;

Chen 2023

国立京都病院と,グローバル監査法人PWC社との共著という珍しい組み合わせの論文です. それもそのはずで,この研究にはPWC社が開発した 人体の代謝をコンピュータシミュレーションするプログラム(上記の Bodylogical)が使われているのです.

日経メディカルにも,この『Bodylogical』について【簡単な】解説記事はありますが;

「仮想の私」で将来の私の病状を予測できる
コンサルティング業務を務めるPwCコンサルティングと武田薬品工業が今年9月、人体の生理機能を再現する「Bodylogical」を活用し、クローン病患者の個人をコンピューター内に再現し、将来の病状などを予測できるアプリケーションを開発するプロ...

このプログラムはべらぼうに中身の詰まったもので,概要を理解するだけでも実に大仕事でした.

Sarkar 2018

私が理解できた範囲での解説は以下の記事にまとめました.

糖尿病の精密数理モデル[3]
糖尿病の精密数理モデル[4]
糖尿病の精密数理モデル[5]
糖尿病の精密数理モデル[6]
糖尿病の精密数理モデル[7]

PWC社は,このシミュレーションプログラムを開発するにあたり,糖尿病予備軍の人が 糖尿病を発症するまでの詳細な検査データを必要としていました. というのも,プログラムを開発するにあたり,シミュレーションと実績との比較のために,生データとの対比が必要だったからです. そこで1996-1999年におこなわれたDPP試験の検査記録データを採用し,『目盛り合わせ』(Calibration)を行いました. DPP試験のデータは 十分信頼性の高いものでしたからこの目的には十分でした.ただし この試験は ライフスタイル介入群に主として体重減量と運動を奨励したのみであり,食事療法の効果は不明でした.

現在 日本だけでなく世界的にも糖尿病には低炭水化物食や低脂肪食などが推奨されており,それぞれ『低炭水化物食の方がいい』『何を馬鹿な.低脂肪食がベストだ』などと論争が続いています.

しかし,ここで考えてみるべきは,低炭水化物食であれ低脂肪食であれ,それらは どの人にも同じように効果を発揮するのだろうか? そこに個人差は存在しないのか? という疑問です. 誰がやっても等しく素晴らしい効果がでるものであれば,とっくに決着はついているはずです. それなのにいまだに論争が続いているのは,この『個人差』に目を向けていないからではないでしょうか.

そこで上記のChen論文では,日本で行われた J-DOIT1試験1のデータを用いて この点を検証したのです.

J-DOIT 1試験

J-DOIT1試験とは 日本で行われた研究です.J-DOIT1試験もDPP試験と同様に,空腹時血糖値が高い糖尿病予備軍の人が糖尿病発症に至るのを.頻繁な健康アドバイス(ただし 非対面で電話のみ)により防止できるかどうかを検討したものです.

全国 43の医療施設,対象者総計2,607名というおおがかりなもので,2007年から 2012年にかけて行われました.全体を2群に分けて,対照群には 糖尿病予防啓発パンフレットを渡したのみ,介入群には 1年間に 3,6,10回にわたり 体重減量/運動励行/食物繊維摂取/節酒 を電話で(1回=約20分)呼びかけました.この1年間の介入の後,最大6年まで糖尿病発症の有無を追跡観察しています.

J-DOIT1

タイトルに『実用的な pragmatic』と銘打っているのには理由があります.DPP試験では対象者一人一人に訓練されたトレナーが指名され,16のカリキュラムに基づいて系統的に運動プログラムをこなすよう督促するというシステムがとられました.ライフスタイル介入群は対象者1,079名もいたのですから,べらぼうな労力と費用がかかりました.いくら糖尿病発症予防のためとはいえ,こんなことは どこの医療機関でもできることではありません. したがって,このJ-DOIT1試験では,もっと現実的に実施可能な手段=『電話によるアドバイス』を採用したのです.これであれば 予め準備したマニュアルに従い,契約した電話コールセンターから発信できるからです.

しかし 残念ながら,J-DOIT試験は 下図の通り 全体としてみれば介入群(電話によるアドバイスをした)と対照群(特に電話はしなかった)とで,糖尿病発症率に有意差は出ませんでした. それゆえ,日本では あまり引用されることはありません

とはいえサブ解析で 医師が頻繁に対象者に電話をかけた(10回/年)ケースだけを抜き出すと,有意に発症率は低下していました.さすがに それだけ頻繁にはっぱをかけられると,節制に努めたのでしょうね.

J-DOIT1 Fig.2D

個人別ペア対比

このJ-DOIT1試験のデータを利用するにあたり,Chen論文では,ベースライン マッチング(Baseline Matching)を個人単位で行っています.

通常 Baseline-Matchedとは 試験群と対照群とで,その群全体の平均値をスタート時点で一致させることなのですが,この解析は 個人ごとにシミュレーションを行うのでBaseline-Matchingも個人単位で行っています.

即ち 下記の条件が一致する 対照群と介入群の個人同士をペアにしているのです.

身長差 ≦ 3cm
体重差 ≦ 4kg
年齢差 ≦ 2歳
HbA1c差 ≦ 0.3%
性別一致

そして この個人ごとに,最初のPWC論文と同様に,観察期間中の体重,HbA1cなどを完全に説明できるデジタルツイン(デジタル化した双子)を作成しています.

そのうえで,この人がこういう食事をしたらどうなるだろうか,つまり 炭水化物と脂質を±25%の範囲で変化させて,ありとあらゆる食事を『食べさせてみた』仮想的な実験結果がこれです. もちろん本当に食事を食べさせたのではなく,デジタルツインに『食事の変化』という外部影響因子を組み込んで その後 体重やHbA1cがどう変化するかをシミュレーションしてみたのです.

下の例は,対象者番号No.41(ID:J0901038)の人と 同 No.44(ID:T1111026)の人の結果です.
この二人が同じ目標(=体重を5-7%下げる)に挑んだとして,どのような食事構成ならそれが達成できるかを推定しています.もちろん 痩せるためには 総カロリーを減らさねばならないのですが,ベースラインのモデルから,カロリーの増減は,体重の増減と相関はするものの,正確にイコールであると言えない( Fig.4)ので,摂取カロリーを±25%に(原文 S9 Fig. ),そして炭水化物,脂質の摂取量もそれぞれ±25%に,モンテカルロ法でランダムに設定して,目標を達成できる『最適な』食事構成を探索したシミュレーション結果です.

Chen 2023 Fig.5

この図に示されている 2人の被験者は,最適な食事変更がかなり異なっています.

の点のNo.41の人は,炭水化物摂取量は約-25%~+25% という広い範囲で変化しても減量を達成できる可能性がありますが,脂質の変化に対しては約-25%~-10% の間というマイナスの領域で かつ狭く制限する必要がありました。 つまり脂質は絶対に減らさなければいけないのです.

これとは対照的にピンクの点のNo.44の人は,脂質の変化は -25% ~ +25%と広い範囲で許容される可能性がある一方で,炭水化物の変化は-25% ~ -5%と必ず減らさなければならないのです.

即ち の点のNo.41の人は炭水化物の変化よりも脂肪の変化に敏感に反応し,目標とする減量を達成するために脂肪摂取量をよりシビアに制限する必要があります。

逆に ピンクの点のNo.44の人は炭水化物の変化に対して敏感でなのです.この人は いわゆる低炭水化物食を行うべきですが,脂質に関してはそれほどこだわる必要がありません。

このようなシミュレーションを検討対象者全員について行い,それぞれの人の最適 C/F比率について回帰直線(上図の点線)をプロットしたのが 下記の図です.

Chen 2023 Fig.7

の線の人は,脂質について ほとんど 0%以下の負の値領域にあることから,脂質増加に敏感で痩せにくいと言えます. しかし,炭水化物については 広い範囲が可能です.
ピンクの線の人は その逆で 糖質を制限する方が 減量には効果的な人です.
そして,このグラフの左下に固まっている短い線の人は,緑であれ ピンクであれ,非常に許容範囲が狭いことがわかります.

カロリーは同じでも

この文献は すべて計算シミュレーションによるものであり,実際に各種の食事療法を比較したわけではありません.
にもかかわらず,これまでの糖尿病食事療法が完全に見落としていた重要なポイントを明らかにしています.

それは従来の考えでは,減量のためにカロリーを減らす場合,その内容については関係ない,つまり脂質を減らそうが,糖質を減らそうが,カロリー低下量が同であれば,減量効果は同じと考えています.なので,もっぱらgあたりのカロリーが大きい脂質を減らせ=低脂質食にしろ,としてきました.

ところがこの結果をみると,低脂質食 あるいは 低炭水化物食の効果は人によって異なるという点です. 低脂質食事療法の方が減量を達成しやすい人と,低炭水化物食事療法の方が確実な減量を達成できる人とが存在するのです.

食品交換表では 総合カロリーが同じなら 痩せる効果は P/F/C比に関係なく同じだとしてきました.しかし,同じカロリーであっても,人によって最適なP/F/C比が存在するとなると,従来の栄養指導は根底から考え直さねばなりません.すなわち『食事療法の個別化』を行わねばなりません.

同じカロリー設定であっても,人によってまるで結果が異なる可能性があると示したこの論文の意義は大きいでしょう.

では,低脂質食が効果的な人と,低糖質食が効果的な人とでは,何がどう違うのでしょうか? 残念ながら,その点については このシミュレーションは何も答えていません. それぞれの特徴を持つ人について,もっと多くのかつ詳細な代謝データがないと解析できないでしょう.

========【余談】=========

この文献の著者の一人であるShikhar Pandey博士 は,Pythonによるプログラミング,データベースのエキスパートです.この記事で紹介した,PWC社の人体代謝シミュレーションプログラムも Pandley博士が作成したものと思われます.

Chen論文 本文中にこういう文章がありますが;

Digital twins were created for individuals selected from the J-DOIT1 study by calibrating instances of the model using a previously described method

デジタル ツインは、以前に説明された方法 [注:PWC社の論文] を使用してモデルのインスタンスを較正することによって、J-DOIT1 研究から選択された個人に対して作成された。

プログラマーが参加しているので,この文献にも頻繁にプログラミング用語が登場します.
デジタルツイン(Digital Twin)もその一例で,要はあなたの体の様子をすべて数式で表現した『デジタル化されたもう一人のあなた』という意味です.

また,『インスタンス』という言葉は,およそ医学論文に登場するものではなく,プログラマーにしかわからないでしょうから,この論文の査読者は目を丸くしたのではないでしょうか.

プログラミング用語でインスタンス Instanceと言えば, Class Objectを実体化したものを指します.
Classが一般的定義で,Instanceがそれを具体化したものです.例えば『犬』というClassは,『四つ足でワンワンと吠える動物』と定義されたとします.それに対するInstanceは,『Class=犬に属していて,体長50cm,体重8kgの柴犬で我が家のポチ』という具合です.

ここで著者がインスタンスという言葉を使った理由は,『PWCモデルの数式の集合は 一般に人体代謝を表現した Classであり,特に個性はない.これらの式の係数に各個人ごとの検査データから算出した具体的な数値を設定したものが Instanceだ』という意図です.

[続く]

コメント

  1. かかか より:

    痩せている糖尿病の親戚が、怪我で入院したとき、当然ながら糖尿病食でした。聞くところ、量が少ないらしい。カロリー制限なのか、お汁の具もすごく少ないと。めちゃくちゃお腹がすくと。でも、差し入れの海苔すら禁止。その、個人差などは考慮されず、画一的なバランスシートに従って、栄養士さんが考えたメニューなのでしょう。ヒョロヒョロに痩せて退院しました。

    人間、どこかでエネルギー産生を行わないといけませんが、消化能力も大きく個人差があって、低糖質食か低カロリー食か、運動のみでいいのか、やってみないと分かりませんね。

    • しらねのぞるば より:

      今 日本病態栄養学会の症例SessionをWEB視聴しているところですが;

      >痩せている糖尿病の親戚が、怪我で入院

      その方の 年齢と糖尿病の程度にもよるのでしょうが,これらの症例では;

      (1) 高齢糖尿病男性の入院
      (2) 肺炎入院後に体力低下した高齢女性
      (3) 食道がん手術 前後の体力・栄養管理

      いずれの症例でも,高齢の場合には入院による体力・筋力低下方からサルコペニアに陥るのを防止するために,カロリー・タンパク質補給を強化することが強調されていました.
      これらの症例は,関電病院,愛知医科大,京大病院での実例なので,かなり理想的なケースなのでしょうね.