医師には 「日本医師会」があり,糖尿病専門医には「日本糖尿病学会」があるように,あまり知られていませんが管理栄養士にも「日本病態栄養学会」という学会があります.
日本病態栄養学会とは
日本病態栄養学会とは,主に管理栄養士と病態栄養専門医が加入している学会です.
研究会として発足したのが1997年,その翌年には学会となり,学会設立当初はわずか238名の会員数でしたが,現在では会員数9,000名を越えるまでになり(2018年),直近の第23回年次学術集会(2020年1月)には参加者は5,329人となりました.
日本医師会の会員~173,000人,日本糖尿病学会の会員~18,000人に比べれば 小ぶりな学会ですが,歴史が浅いことを考慮すれば,充実した学会であると思います.
糖尿病や高血圧,高脂血症では,食事療法はきわめて重要です.むしろ 投薬よりも影響が大きいでしょう. それ以外にも癌患者,妊婦,周術期(外科手術前後),高齢者にとっては 栄養管理は非常に重要です.
私が子供の頃は,『病院食』と言えば,まずいものの代名詞でした. しかも どの病気で入院していても,病院食はみな同じが当たり前でした. 『病人なのだから,お粥と少量のおかずでいいだろう』という感覚だったのです.
しかし,それではいけない,病気が異なれば,また病状の程度が異なれば,それに最適の栄養補給・栄養管理があるはずだ,という考えから設立されたのが この日本病態栄養学会です.
糖尿病食
ところが,他の病気の病院食は知りませんが,糖尿病患者向けの病院食は,これまで信じがたいことが行われてきました. 私も 昔 友人の見舞いに行って驚いたのですが,吉野家の牛丼サイズの丼にたっぷりのご飯,それにしては 異様に不釣り合いなおかずの少なさです.
『糖尿病は,血糖値の上がる病気なのに,どうしてこんなに大量の白米を食べさせるのか. これでは糖尿病悪化食ではないか』
しかも,これは特定の病院の話ではなくて,全国のほぼすべての病院でこうなのです.
食品交換表
なぜ,こんな食事が病院で糖尿病治療中の患者に出されるのか,それは食品交換表に忠実にしたがっているからです.
食品交換表の最新版は,現在 第7版(2013年)ですが,基本的には 1993年に発行された 食品交換表 第5版から変わっていません. 第7版で 多少炭水化物を減らしてもよいとしただけです.
食品交換表の考え方によれば,糖尿病患者に最適な食事とは;
- 【A】炭水化物(C)/脂質(F)/蛋白質(P)の理想的な栄養バランス比率は,60/25以下/~15 である.
- 【B】糖尿病患者は,基礎代謝(=安静時のエネルギー消費)が少ないのだから,食事ごとのカロリー設定は少なめの方がよい
というものです. したがって,
食品交換表は,すべての糖尿病患者が一律に守るべき理想的食事療法であり,医師や管理栄養士も この商品交換表を厳密に守らなければならない
と,当時の日本糖尿病学会は主張しました.
しかもこれは理想的な食事なのであるから,単に糖尿病患者に最適であるだけでなく,健康な人にも(カロリー設定は多めにするとしても)理想的な健康食である
と明記していました(してしまった).
糖質が多すぎないか?
ところが2010年前後から『糖質摂取を控えれば,血糖コントロールはよくなる』,すなわち『糖質制限食』が注目されるようになると,事態は風雲急を告げます.おりから SMBG,つまりその場で簡単に血糖値が測定できるよう簡易測定器が普及すると,病院で出されている『糖尿病食』では,食後にとんでもなく血糖値が上昇することが,誰の眼にも明らかになったからです.
そうであるなら,糖尿病患者の食事は もっと炭水化物を減らすべきではないか,という声が上がった時に,当時の日本糖尿病学会は猛反対しました. 上記【A】の栄養素比率は,血糖値だけでなく,その他の疾病リスクも考慮した理想的な栄養バランスなのだから,みだりに変更してはならないという理由でした.
また 糖尿病で入院していた患者には,病院で出される食事だけでは『腹が減ってたまらない』と訴える人が多くいましたが,これに対しても 日本糖尿病学会は『糖尿病は悪しき生活習慣から発症するのであり』『そもそも基礎代謝が少ない糖尿病患者が過食するから糖尿病になるのであって,食事が少ないと感じるくらいでちょうどいいのだ』と,患者の訴えには一切取り合いませんでした.
健康人の標準的な1日所要熱量に比較して糖尿病では約10%低い.食品交換表は世界でも類をみないほど先輩が長年に亘り検討を重ねたもので,2型糖尿病は60~70代が最も多く,悪しき生活習慣によって惹起された症例が殆どである.
2013年 日本病態栄養学会 MeetExpert3-1
管理栄養士に食事療法の決定権限はない
意外に思われる方も多いでしょうが,病院で患者に栄養指導を行う管理栄養士には,食事療法の内容を決定する権限はないのです.それは医師法において;
医師でなければ、医業をなしてはならない
(医師法 第17条)
と定められており,ここでいう『医業』とは,診断・治療・検査等々,すべての医療行為を含みます.
食事療法も,それが『療法』,すなわち『治療行為』なのだから,これは医療行為に該当し 医師以外の者が行うと医師法違反となります.
そこで栄養士法においては;
管理栄養士は、傷病者に対する療養のため必要な栄養の指導を行うに当たつては、主治の医師の指導を受けなければならない
(栄養士法 第5条の5)
と定めています.食事療法も投薬や手術と同様に医療行為であり,医療行為は医師のみが行える[=業務独占資格]からです. したがって,仮に医師が栄養学にはまったく無知で(じっさいそうでしょうが),管理栄養士は栄養学のエキスパートであっても,『医師の指導の下に患者に栄養指導する』しかないのです.
じゃあ管理栄養士という名前は 何なんだということになりますが,上記2つの法律を見れば,別に 管理栄養士の資格がない人,たとえば調理師資格を持つ人が『医師の指導の下』であれば糖尿病用の食事を作れます. ただし『管理栄養士』と名乗って栄養指導はできません[=名称独占資格]. ただそれだけです.
したがって医療行為の権限を有する医師が,日本糖尿病学会の定めた食品交換表により糖尿病食事療法を行うと決めたら,管理栄養士をはじめとする医療スタッフは,その通りにするしかないのです.
これが全国 ほぼ一律に食品交換表通りの糖尿病病院食が出されてきた理由です.管理栄養士に権限はないのであり,したがって責任もありません.
管理栄養士は,患者に医師の指示する通りの栄養教育,すなわち食品交換表にいささかの例外も認めず,一律の食事をするよう求めてきたのです.
血糖値スパイク
一方で,前述のように,SMBGの普及により,それまでの糖尿病指標である空腹時血糖値だけでなく,食後の血糖値も注目されるようになりました.(現在ではさらに リブレが普及したので,単に『血糖値』といえば,『食後血糖値』を指すことも多くなりました)
食後高血糖は,その人の耐糖能に応じた糖質摂取量にすれば防止できる
これが 誰の目から見ても明らかになってきました.何も糖質制限食とまではいかなくても,これは常識的な判断です.
したがって,当初 日本糖尿病学会内でも,『糖質制限食は極端に走る人がいるので推奨できないが,せめてカーボカウント[★]は,1型だけでなく,すべての2型糖尿病患者に教育すべきだ』という声が多くなってきました.
実際 2011年ころまでは,学会内でも賛成意見が多かったのです.
[★] カーボカウント:食後血糖値を一定にするために糖質摂取量を一定にすること. 又は摂取する糖質量に応じてインスリン注射単位を決めること.
ところが,学会内で,食品交換表の編纂を担当していた幹部は,このカーボカウント教育にすら反対しました.
一方で,これらのカーボカウントの一種の悪用により,極端な低炭水化物食へと走らないように注意することも肝要である.
第55回日本糖尿病学会 From Debate to Consensus DC6-2
『悪用』という,およそ学会という場にはふさわしくない言葉を用いてまで『カーボカウントは糖質制限食という悪質な行為に利用されるおそれがあるから反対だ』と主張したのです.
しかし,これは逆効果でした.明らかに糖尿病患者のためになるカーボカウントにまで反対したことで,つまり 糖尿病患者が 自分の食事の糖質量を見積もることすら反対したことで,『守りたいのは患者なのか? それとも食品交換表なのか?』と,食品交換表への懐疑派を増やしてしまったのです.
エビデンスを示せ
おりしも 糖尿病に限らず,すべての医学分野で,EBM(Evidence-Based Medicine),すなわち科学的根拠に基づいて 診療・治療を行うべきだという世界的な流れがありました.
糖質制限食に強硬に反対する人たちは,この流れに乗って『EBMの観点から,糖質制限食にはエビデンスがないから危険だ』と激しく攻撃してきたのですが,
カーボカウントにまで反対してしまったために,『食品交換表は理想食だ』という従来の主張がやり玉にあがることになりました.絵に描いたようなブーメランです.
『それなら,食品交換表にはエビデンスがあるのですか?』
と問われたからです.
特に問題になったのはそれまで学会が『理想的である』としてきた 炭水化物/脂質/蛋白質 比率(=P/F/C比率)にはエビデンスがあるのか,あるのなら そのエビデンスを示すべきだという声です. なんとこの問題をめぐって2014年から2018年まで延々と議論が続きました.
そしてすったもんだの議論のあげく 明らかになったのは,『食品交換表で指定する従来のP/F/C比率にはエビデンスは存在しない』,これを学会が認めたのです.
「糖尿病診療ガイド ライン」では,「食事のなかの炭水化物を 50~60% エネルギー,たんぱく質 20% エネルギー以下を目安として,残りを脂質とする.」と記載している.
第59回日本糖尿病学会 シンポジウム26『これからの食事療法の展望』
[中略]
しかし問題点の一つとして,現状では各栄養素についての推定必要量の規定はあるものの,相互の適正比率を定めるためのエビデンスには乏しい点が挙げられる.すなわち,前述の栄養素バランスの目安は,今のところ健常人の平均摂取量に基づいているにすぎない
これは当然で,実はどの食事療法であれ,食事療法にはエビデンスは存在しません.というか食事療法のエビデンスは不可能なのです.
この記事にも書きましたように,エビデンスがあるからといって,それが絶対の真理であると証明されたわけではありません. エビデンスがあってもそうなのですから,そのエビデンスすらありませんでしたというのであれば,これは もうまったく 論外で トンデモ医学です.
カロリー設定も誤っていた
『理想のP/F/C比率は存在しない』 これだけでも食品交換表の基礎は揺らぎましたが,決定的になったのは,食品交換表が推奨するカロリー制限食の設定カロリーは間違っていたことです.
従来から食品交換表に規定されていた『BMI=22を基準としたカロリー設定』は,実測データからみて 過少すぎたことが証明されてしまったのです.
『糖尿病患者はぐうたらな生活をしているのだから,カロリーは少なめでいいのだ』という誤解が根底にあったとしても,あまりにも少なすぎるカロリー設定でした.『先生,こんな食事ではひもじくて仕方がありません』という患者の訴えは正しかったのです.
以上の通り,2018年までに 食品交換表は すべての根拠を失ってしまいました.
糖尿病診療ガイドライン 2019
ここに至って,日本糖尿病学会は,『糖尿病診療ガイドライン 2019』 (以下 『GL-2019』)で,それまでの『糖尿病患者に一律の食事療法』という考えを ついに撤回しました.
糖尿病の食事療法は全員一律に同じではなく,患者一人一人に応じて個別化すべきだ
と,それまでとは 正反対の指針に転換したのです.
しかし,この方針転換は全国の糖尿病医療関係者には ショックでした. 何十年にもわたり,口を酸っぱくしてでも患者には食品交換表を守らせろと言ってきたのに,突然『食事療法は一律に押し付けるな.患者を見て個別に考えろ』となったのです.
当然 疑問・質問・抗議が殺到したと想像されます.今まで患者に言ってきた手前,今さら前言をひるがえせないではないかと.
最近の学会では『GL-2019で方針転換したのなら,今後 どうすべきか もっと具体的な指針が必要ではないか』という意見も出されました.
ところが 今年の3月に開催された日本糖尿病学会が主催するシンポジウム『第55回 糖尿病学の進歩』では,とうとう『食品交換表』という単語自体すら登場しなくなりました.
これでは全国の病院は,なかんずく全国の管理栄養士は,いったいこれからどうすればいいのでしょうか. 『医師の指導のもとで』食事療法・栄養指導をこれからどうやっていけというのでしょうか?
次回 日本病態栄養学会に注目
その今後の方向が占えそうな講演会(ディベート)が来年1月開催の 第24・25回 日本病態栄養学会で行われます(本来 第24回学会は 本年1月開催予定でしたが,コロナのために中止,第25回と合同開催となりました)
注目されるのは 学会3日目の午前に開催される このシンポジウムです.
コントラバシー1:
食品交換表を栄養指導時に利用する是非
まず,シンポジウムのこの題名が 感無量です. 私が初めて 日本糖尿病学会や日本病態栄養学会に野次馬参加した頃は,『食事療法』と『食品交換表』はイコールでした.『正しい食事療法とは食品交換表であり,それ以外にはない』というわけです. したがって,正しい食品交換表を真っ向から否定するような糖質制限食は『犯罪にも等しい行為』であると学会は断定していました.
それが今や,『栄養指導に食品交換表を使ってもいいものなのか?』を堂々と論ずる時代になったのです.
件名が『コントラバシー』,すなわちディベートですから,栄養指導にあたって,
- 従来の食品交換表を使い続けるべきだ(=【是】サイド),
- もはや食品交換表の利用はやめるべきだ(=【否】サイド)
それぞれの論者が『激論』を交わす,ということなのでしょう.
この『コントラバシー』の結果は実際に行われてみなければわかりません. (もちろん予め打ち合わせておいた台本があるのかもしれませんが)
ただし,是か非かという討論の結論は下記のどちらかであるはずです.
- 【結論1】食品交換表は 今後も栄養指導資料として使い続けるべきである.
- 【結論2】『糖尿病診療ガイドライン 2019』で 糖尿病食事療法の個別化を定めたのだから,今後は栄養指導に食品交換表は一切使わない.
日本糖尿病学会の 治療指針の根幹である 『糖尿病診療ガイドライン 2019』で,『糖尿病患者の食事療法は個別化する』という方針を打ち出したのですから,普通に考えれば【結論2】となるのが妥当でしょう.
しかし,そうすると,前記の通り これまで何十年も『食品交換表の通りの食事をしてください.例外はいっさい認めません』と患者に言い続けてきた全国の管理栄養士は困ります. 『今まで嘘を言ってきたのか?』と患者に突き上げられるかもしれないからです.
したがって,これはまったく ぞるばの個人的見解ですが,結論はこうなると予測しています.
- 【結論3】『糖尿病診療ガイドライン 2019』で 糖尿病食事療法の個別化を定めたが,今後は 食品交換表は参考資料の一つとして使うにとどめることとする.
皆様,どうなると思いますか?
この日本病態栄養学会は,毎年1月に 原則として京都国際会館で開催されます.
この時期の京都,しかも洛北の宝ヶ池ですから,3回に1回くらいの確率で雪に降られます.
雪の京都は美しいです. しかし,いやというほど寒いです.次回はその寒い京都で どんな熱い議論が闘わされるでしょうか.
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