食事療法の迷走[21] インスリン抵抗性説の浮上

日本人よりもはるかに心疾患死亡率の高い欧米で,各国の糖尿病学会が『糖尿病の食事療法では低脂質・高糖質の方が安全なのではないか』という方向に一斉に傾斜し始めたのが1980年代前半の動きでした. 日本糖尿病学会は,最初の頃は冷静だったのですが,米国糖尿病学会(ADA)が1986年に『糖尿病患者の栄養に関する推奨事項と原則』という声明を出すと,次第に不安になったようです.

Diabetes Care Vol.10(1) 126-132,1987

この声明の筆頭で,炭水化物はこう推奨されています.

  1. 炭水化物の量は,理想的には総カロリーの55〜60%を限度として自由に摂らせてよい.その摂取量は、血糖値や脂質レベルに及ぼす影響、並びに各個人の食事パターンなどを勘案して個人別に判断する.
  2. 患者が認容できるのであれば,繊維の少ない精製された炭水化物を,繊維が多い未精製の炭水化物に置き換えること.

上記の[1]の文章を『炭水化物 55~60%が理想的である』などと解説している本もありますが,それは間違いです. “Ideally” ではなく”Ideally up to”なのですから.
また 紫文字の部分から明らかなように,全員一律にではなくて,血糖値や血中脂質に影響がないことが前提です.

したがって,ADAは無差別・無制限に,また 糖尿病患者に一律に高糖質食を推奨したわけではなく,当時の糖尿病治療手段の乏しさの中で,血糖コントロールと食事の低カロリー化を容易にする手段の一つとして,『個別に患者を見たうえで』糖質量を増やしてもよい,としただけなのです.

しかし,このADAの文書は,1970年代の『マクガバン・レポートが日本食を推奨した』という歪曲にも等しい誤読と相まって,『ADAが,糖尿病の食事療法は高炭水化物が理想的と推奨した』と喧伝されてしまいました.

日本糖尿病学会 1987-1990年の動き

ADAが上記の声明を出して以降の,日本糖尿病学会の動きを見てみましょう.

1987年

1987年 第30回日本糖尿病学会で,食事療法に関する集中討論が行われています.

ワークショップ V 『機能面からみた食事療法』

このワークショップの冒頭序文にはこう書かれています.

その目標とするところは,単に代謝の是正のみならず,糖尿病性慢性合併症,動脈硬化性血管合併症の発症,進展の抑制に1置かれるようになった.またその食事は長期間続けられるものではなくてはならない。したがってわが国ではよくバランスのとれた内容(蛋白質15~20%,脂肪20~30%,炭水化物50~60%,エネルギー比)で,総カロリーを抑制しようということが基本原則となっている.

第30回日本糖尿病学会 ワークショップ V 『機能面からみた食事療法』

蛋白質15~20%,脂肪20~30%,炭水化物50~60%,エネルギー比が基本原則であると書かれていますが,特に引用元を示していないことから,これが当時の学会でコンセンサンスがとれていたのでしょう. したがってこの1987年の時点で炭水化物60%が正しいとされていたことがうかがわれます.

1989年

しかしながら,1989年 第32回日本糖尿病学会の記録を見ると;

・日本のNIDDM(2型)の発症率は,欧米とほぼ変わらない
・糖尿病患者の生命予後やリスクファクターにもあまり差がない
・しかし,日本の糖尿病患者の死因で,心疾患死は米国の1/3であり,逆に腎疾患死・脳血管死が米国よりもはるかに多い.

Workshop1-1 日本人糖尿病の特色

20年間にわたり2型 96名を追跡したが,HbA1cと肥満度とに相関関係はみられなかった

TOPICS3-2 肥満と糖尿病

[インスリン抵抗性]=[肥満]=[心疾患直結]という米国型の糖尿病は 当時の日本ではそこまで認識されていなかったことがうかがわれます.

1990年

続いて 1990年 第33回日本糖尿病学会では,

ラットに高脂肪食(ラード60%)又は高糖質食(ショ糖73%)を与えて比較したところ,高脂質食では著明にインスリン感受性低下,高糖質食では変化がなかった

Workshop V-3 栄養学的見地から見た糖尿病の治療

高脂質食がインスリン抵抗性の原因だとしています. しかし草食動物であるラットに ラード60%という絶対に野生ではありえない食事を与えていることに特段批判はなかったようです.

(C) まりもる さん

1991年

更に 1991年 第34回日本糖尿病学会になると,

シンポジウムIV インスリン抵抗性

始めてインスリン抵抗性を集中的にとりあげたシンポジウムが行われました.日米合わせて7本もの講演が行われています.

日本の発表者はインスリン抵抗性とは何か,その評価方法は,という基礎論が多かったのに対して,米国カリフォルニア大学 Olefsky教授,はインスリン抵抗性は2型糖尿病の主症状であるとして,その機序を詳細に解説しています.米国の立場から見れば 糖尿病=インスリン抵抗性だったので,これは当然でしょう.

このように,最初は高糖質食に中立・冷静であった 日本の学界も,年を追うごとに,米国と同様に,『糖尿病とはインスリン抵抗性が主因であり,それは高脂質食が原因だ』という説に傾いていったのです.ただ,たしかに この頃から日本でも特に中年男性の肥満が問題になり始めたので,当時の背景事情を見れば,ここまでは科学的に見てもやむをえない流れであったと思います.

問題は,ここにおよそ科学とはほど遠い観点が入り込んできたことです.

[22]に続く

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