グルコキナーゼ活性化薬[8完] 今後の予測

グルコキナーゼは監視塔

グルコキナーゼとは,主に肝臓と膵臓に発現する酵素です.人体が高血糖状態の時,肝臓においては糖を素早く取り込んでどんどんグリコーゲンに変換していきます.そして膵臓ではβ細胞からのインスリン分泌を促進します.結果として血糖値は下がるので,低血糖状態に近づくと,肝臓のグルコキナーゼは自身の構造を休止状態(=Super-Open型)に変化させて,糖取り込みを停止します.

この動作から分かる通り,グルコキナーゼは 人体が 今高血糖なのか/低血糖なのかを常に監視している重要なセンサーなのです. なので,グルコキナーゼの動作がおかしくなると,高血糖なのにインスリンが全く分泌されなかったり,あるいは遅れて分泌される,つまり自動車でいえば目盛りがズレた速度計のようになってしまいます.

(C) 旅人0715 さん

糖尿病の解説資料などには『糖尿病ではインスリン分泌が少なくなる,あるいはインスリン分泌が遅延する』などと書かれています. しかし 本当にインスリン分泌そのものが障害されているのであれば,このような症例は説明不可能です. 膵臓に十分なインスリン分泌能力はあるにもかかわらず,高血糖になってもインスリンが分泌されていないからです.

第65回 日本糖尿病学会 P-94-5

そこで 従来 『インスリン分泌遅延』又は『インスリン分泌減弱』と言われてきたものは,実は 膵臓に原因があるのではなくて,グルコキナーゼが正常に働かなくなっているだけではないかという考えが1990年代から有力になってきました.
実際糖尿病患者の肝臓細胞生検データから,糖尿病の人ではグルコキナーゼの活性が大幅に低いことが確認されました.

そうであれば,『膵臓ではなく,グルコキナーゼに働きかけて,その活性を高めてやれば有効な糖尿病の治療薬となるはずだ』この考えに基づいて開発されてきたのがグルコキナーゼ活性化薬です.

グルコキナーゼ活性化薬

そこで,ラットやマウスの肝臓・膵臓から取り出したグルコキナーゼに 種々の化学物質を作用させてみたところ,意外にも多くの(そして割合簡単な構造の)化学物質物がグルコキナーゼの活性(=グルコースとの反応性)を高めることが見出されました.実際にそれらの化合物をマウスなどに投与すると,まるで強力なインスリンのように 直ちに血糖値を低下させることもわかりました.インスリンのように注射しなくても,経口服用するだけで血糖値を下げられるのです. メルクやロシュなど,世界中の主な製薬会社では,こぞってグルコキナーゼ活性化薬の実用化競争が始まりました. 本ブログの記事では取り上げませんでしたが,ファイザーやアストラゼネカなどももちろん開発を進めてきました.

しかし,グルコキナーゼの開発は 一旦頓挫しました. それは 初期に開発されたグルコキナーゼ活性化薬は,たしかに投与開始直後は すばらしく血糖値を下げるのですが,投与期間が長くなるにつれて,だんだんその効果が薄れていったのです.

この不可思議な現象は,長らく不可解のままでしたが,その後 ようやく解明されました.グルコキナーゼの活性をやみくもに高くすると 肝臓でのグルコース→グリコーゲン処理能力を越えてしまい,生体の防衛的な逆反応が活発になって,グルコキナーゼの活性を帳消しにしていたのです.

以上のことから,グルコキナーゼを活性化すればいいとはいっても 無制限に高めるのではなく,『低血糖状態では不活性型に変化する』というグルコキナーゼ特有の特性まで変えてしまってはいけないことがわかりました.

この考えを取り入れて開発されたのがグルコキナーゼの部分活性化薬です.低血糖状態の動作はそのままに,高血糖の時だけグルコキナーゼの活性を高める薬です. この代表例が Rocheの開発したドルザグリアチン(Dorzagliatin)です.
ドルザグリアチンは,初期のものとは異なり,52週間にわたり連続投与しても血糖値低下効果が維持されていることが第3相試験で確認されました.

以上が 本シリーズのまとめです.早ければ 1,2年の内に,従来の薬とはまったく作用メカニズムの異なる新規糖尿病薬として ドルザグリアチンが登場するかもしれません.


今後の[個人的]予想

そこで,以下に この薬について,しらねのぞるばの個人的意見を述べます. したがって 以下は文献情報に基づくものではありません.

Rocheは手を引いた

実はRoche自身は 既にドルザグリアチンの開発続行を断念しています.中国の製薬会社 Hua Medicineドルザグリアチンのすべての開発・製造・販売ライセンスを譲渡しているのです.

現在 世界の糖尿病患者は約5億人といわれます.その9割ほどが2型糖尿病です.そして2045年までに 8億人近くにもなると予想されています. 2型糖尿病治療薬で大当たりすれば 莫大な売り上げと利益が得られるでしょう.

RocheがHua Medicineにライセンスを供与したということは,もしもドルザグリアチンが大ヒットした場合得られるであろう利益を総取りするのではなく,その一部から支払われるからロイヤリティを受け取るだけで満足するということです.
反面 ライセンス販売に転換すれば,今後発生するドルザグリアチン実用化に向けての費用発生とリスクからはフリーです.リスクとプロフィットとを秤にかけて,より安全な道を選んだわけですから,Roche自身はこの薬の成功確率が高くないと査定した結果かもしれません.

Rocheはなぜそうしたのでしょうか? 実はRocheだけではありません,メルク,ファイザー,アストラゼネカなどといった世界の名だたる大規模製薬会社がこぞってグルコキナーゼ活性化薬の開発に取り組んできましたが,10年以上たってもまだ実用化には成功していないのです.

これほど作用機序が明確な薬なのに 未だ実用化されないのは,この薬特有の難しさがあるからではないかと思います.

さじ加減の難しい薬

第一世代から最新のグルコキナーゼ活性化薬のすべてについていえることですが,この薬は血液中のブドウ糖を積極的に取り込んで血糖値を下げようというものです. 同時に血糖値上昇に対応して,膵臓β細胞からのインスリン分泌を促進します.

後者はいいのですが,前者の『肝臓でのグルコース取り込みを活発化させる』には注意が必要です. そうやって取り込んだグルコースを肝臓の中で処理(=グリコンーゲンに変換して蓄積)できている間はいいのですが,それが限界に達すると 取り込んだグルコースは中性脂肪に変換されます. 実際 多くのグルコキナーゼ活性化薬では,投与の副作用として中性脂肪の上昇・肝機能の悪化がみられました.

少しでも薬が過剰だと,肝臓がグルコースであふれてしまい,『血糖値は下がったが,中性脂肪=脂肪肝は増えた』となりかねません.

糖尿病患者のグルコキナーゼの活性低下度合は 人によってかなりの幅があるので 同じ投与量でも,ある患者にはまったく効果不足,別の患者には投与過剰で低血糖などとなるかもしれません.

グルコキナーゼは肝臓では 糖取り込みを促進し,膵臓では β細胞からのインスリン分泌を促進する一人二役なのですが(肝臓のグルキキナーゼに限定して活性化するものもあります),人によって 肝臓の性能・膵臓の性能は それぞれ違うわけで,肝臓の取り込むみが過大だからといって投与量を減らすと,それでは膵臓のインスリン分泌促進にはまったく不足などということもおこりえます.

つまり最適投与量の匙加減がかなり難しい薬なのです.錠剤ではなく注射薬として,インスリンと同様に細かく投与量を変化させる必要があるかもしれません.

頓服なら効果的

ただし,長期投与しなければ,つまり一過性の頓服ならば,これほど薬効の明確な薬はないのですから,αーグルコシダーゼ阻害薬のように,食後血糖値の抑制剤として使えば 間違いなく効果的でしょう.ただしそれでは 糖尿治療薬としてのターゲット市場サイズは一挙に小さいものになりますから,メガファーマからみれば物足りないものになるかもしれません.

勝手な想像ですが,効果と機序が明確で有望な薬であるにもかかわらず, そして開発が10年以上も続いているのに なかなか実用化の舞台に登場しないのは以上のような理由からかなと思っています.

勉強になりました

ぞるばは工学部化学系の出身で,修士論文は とある化合物の立体構造と反応性との関係でした. したがってこのグルコキナーゼについては,掘れば掘るほど ついつい熱が入りました. 大学で学んだ立体化学なんて,実社会ではまったく使わなかったのに,今になってその知識が役に立つとは皮肉です.

立体化学というものは,有機合成化学の分野では もう何十年も大きな進展は見られませんが,生化学分野では in Silicoの例からもわかるように すごい勢いで進歩しているのですね. これは最新の情報でUpdateしなければと思い,Harperの生化学教科書を最新版に買い直しましたが,

(C) 丸善

もう本当に めまいがするほど難しいものでしたw.

しかし,これですべての疑問が解消したわけではありません.

  • なぜ糖尿病患者ではグルコキナーゼ活性が低下しているのか. それはグルコキナーゼ自身の変化によるものか,単にグルコキナーゼの量が減ったためなのか,あるいはグルコキナーゼの構造も量も正常なのだが何らかの理由で動作が阻害されているのか.そしてそうなった原因は何なのか.
  • 最新のグルコキナーゼ活性化薬であれば,過剰な血糖値降下が起こらないよう 適切なフィードバックが働くのか
  • 薬を使わずにグルコキナーゼを活性化する方法はないのか.
  • 食物から知らず知らずに摂取している成分には,グルコキナーゼの特性に影響を与えているものはないのか.

等々,調べれば調べるほど 更に疑問が増殖しました.これらは全く未知の領域ですね.

おつきあいいただき,まことにありがとうございました.

【完】

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