ヒトの全遺伝情報解析により,わりと早く解明されるであろうという期待を裏切って,『糖尿病はどこまで遺伝に左右されるのか』という問題は,『遺伝学者の悪夢』として悩ませ続けています.
どれほど詳細に『糖尿病に関連する遺伝子』を調べても,それは糖尿病発症リスクをたかだか10%程度上げているだけとしか見積もれないからです.
エピジェネティクスではないか
このギャップに一筋の光明を投げかけそうなのがエピジェネティクス(Epigenetics)です.エピジェネティクスについては,簡明な解説があるので,こちらを見た方が早いでしょう.
より詳しくは こちらの本がおすすめです.
遺伝子は同じでも
DNAには人体の遺伝情報がすべて収められています. しかしDNAに書かれているからと言って,それらがすべて同様に発現されるとは限らないのです. 住宅の設計図面には書かれていても,実際には施工されない箇所もあるというわけです. 手抜き工事のようですが,DNAに書かれている遺伝情報は相互に矛盾・相反するものもあるので,実際に遺伝情報通りに蛋白質が合成する時には適宜塩梅を調整されます.これがエピジェネティクスです.
たった一つの卵細胞から出発したのに,それらが分割・増殖するにつれて,皮膚細胞,神経細胞,骨細胞と全く違う細胞に分化していく,これらすべての細胞の遺伝子はまったく同じなのに,どうして違うものになるかを説明したのがエピジェネティクスです. Epi-は『後から』,geneticsは『遺伝』ですから,『遺伝の後に決まる』という意味ですね.
エピジェネティクスの典型例は,ミツバチの女王蜂と働き蜂です. 両者はまったく遺伝子が同じです.ただ集中的にロイヤルゼリーを与えられた幼虫だけが女王蜂時になります.
ON/Offを使い分ける
仮にこういうDNAがあったとします.ここには遺伝情報としてこう書かれています.しかし,この遺伝情報がいつもすべて使われるわけではありません.
エピジェネティクスとは,この遺伝子にスイッチ付の窓がついており,どのスイッチをON(=窓を開ける)にして,どのスイッチをOff(=窓を閉じる)か[★]によって,遺伝子が発現する/しない を調節する仕組みです.
[★]『窓の開閉』= DNAのメチル化やヒストン修飾のことです.詳細は上記の本を参照願います.
そこで,エピジェネティクスの仕組みで,発現させるもの/発現させないものがこうなったとしたらどうでしょうか?
あるいは,こんなことも起こり得ます.
両者はまるで違います.一方は おいしい和菓子ですが,他方は [ピーーッ] です. しかしどちらもDNAは同じです.
双生児であっても
一卵性双生児は,生まれた時から死ぬまで まったく同じ遺伝子を持ったままの一生です. ところが二人の遺伝子の変化を追跡してみると;
一卵性双生児のA,Bは3歳の時点では まったく同一でしたが, 50歳の時点では Bさんはまるで別人といえるほど変化しています.二人の50歳までの環境の違いによりここまで変わってしまったのです.
ただしBさんの遺伝子が変化したのではありません. 50歳の時点でも 二人のDNAはまったく同じです.ただ 上図の窓の開け閉めの具合がまるで違ってしまったというだけです.
糖尿病とエピジェネティクス
糖尿病の発症を古典的遺伝学や DNA解析結果だけで説明できないのは,このエピジェネティクスの効果,つまり『環境が遺伝子発現に影響している効果』が大きいからではないのか,とする説は 最近強く提唱されるようになりました.その可能性は大です.ただし,まだズバリとそれを証明した報告は出ておりません.
[9]に続く
コメント
糖尿病は家族性と見える場合が多いので遺伝子変異と関係があるだろうと仮説を立ててみたまではよかったのでしょうが、思ったほどの有意性がない。
これの家族性を説明するものとしてエピジェネティクスは有用ですね。
なんせ、同じDNAでも(変異がなくても)振る舞いを変えることができるし「オランダの飢餓研究」で明らかにされたようにエピジェネティクスは環境により後天的に変化し、かつ、その環境にない孫にまで伝播することが明らかにされていますから。
この事を知ってからは、生活習慣病は自己責任だと言う見方がある一方で、私は自己にとどまらず自分の子孫への責任もあると考えるようになりました。
>糖尿病は家族性と見える場合が多い
実は 家族の食習慣・生活スタイルを 子供の時から植え付けてきたから,という『社会的遺伝』も大きいと思っています.
『我が家の家風は 糖尿病だ』なんてね.
塩味の濃い料理で育てられた子供の味覚は,大人になっても変わらないでしょう.