食事療法の迷走[6]1965年 食品交換表の登場2

敗戦直後の絶望的な食糧不足と栄養失調からは抜け出したものの,1965年当時の食事の内容は;

米食偏重で,近代化・高度化された欧米先進諸国の食糧消費水準からみれば,食生活の近代化,高度化とはほど遠い摂取水準にある

1965年 厚生省 国民栄養調査

という状態でした. しかし一方で高度成長が始まり,毎年給料が上がっていくので庶民でも海外旅行やマイカーに手が届きつつあったのが1965年です. この年,日本糖尿病学会が「食品交換表」第1版を発行しました.

食品交換表 第1版

当時の名前は,正確には『医師・栄養士・患者にすぐ役だつ 糖尿病治療のための食品交換表』でした.
表紙写真が小さくて分かりにくいですが,推奨する朝食の一例で,トースト・牛乳・目玉焼きとサラダです.

当時の感覚がうかがわれるのは,フォークとナイフ,そして紙ナプキンが添えてある点です. いったい 現在トーストと目玉焼きの朝食にナイフ・フォークを置く(★)ご家庭があるでしょうか? 『先進的な欧米の食事』に対する憧れがあったのでしょうね.

(★) それなのに 料理は 日本古来のお盆の上に置いています.

ところで,この『食品交換表』という名前,どうにも日本語としては収まりの悪い異質な言葉とは思いませんか? 食品交換表 第1版が生まれた背景については,日本糖尿病医学界の重鎮 後藤由夫先生(東北大学 名誉教授)が回顧されています.

食品交換表はこうしてできた
後藤由夫:私の糖尿病50年 糖尿病医療の歩み

アイデアは米国から

実は食品交換表の発祥地は米国なのです.詳しい経緯は上記の後藤由夫先生の回顧記事に書かれていますが,後藤先生が1958年から2年間 米国ペンシルバニア大学内科 Francis Lukens 教授の元に留学した際,当時 米国糖尿病学会が発行していた

の中に,糖尿病患者の食事指導法として Food Exchange Systemが解説されているのを見て,これを日本に持ち込んだのが日本の『食品交換表』だったのです.英語の直訳だったのですね.

ただし米国のFood Exchange Systemをそのままコピーしたのではありません.食材を食品群として分類し,各群から所要量を摂取するという骨格は同じですが,

「葉物野菜は好きなだけ食べてよい」とか「パンや果物はいろいろ種類があるが,あまり細々と分類しなくてよい」などと,米国らしくおおらかなものです.何事も几帳面にやらないと気がすまない日本人とは正反対の感覚です. しかし,米国流がいいかげんなのではなくて,『この程度にしておかないと実際に実行できないでしょう?』というプラグマティズム(現実主義)が根底にあると思います.

これを後藤先生が,主食+副食というコンセプトの日本食に合わせてアレンジしました. 更にそれを参考にして

それから1、2年のうちに東京都済生会中央病院(あかばね会1962年)、虎の門病院内分泌科(1962年)をはじめ全国の各地のクリニックで独自の交換表を作ることがはじまった。それで仙台で食事療法を覚えても、転勤すれば別の交換表で覚えなければならないようになってしまった。

後藤由夫:私の糖尿病50年 糖尿病医療の歩み
食品交換表はこうしてできた

これではいけない,統一したものを作ろうと日本糖尿病学会が中心になって作成されたもの,それが 上記の『食品交換表』第1版でした.
では,この第1版にはどのようなことが書いてあったのでしょうか? 現在の最新版 第7版とはどこかが違っていたのでしょうか? あるいは ほとんど同じものだったのでしょうか?

[7]に続く

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