「昔は糖尿病が少なかった」は本当か
現在は 昔に比べ,特に昭和30年頃に比べると糖尿病が30倍に増えている
などとはよく言われます. こういうグラフが病院や薬局の待合室の壁に貼られていたりします.
誰でもこれを見れば,「ものすごい勢いで糖尿病が増えている!! 大変だ」と思います.
でも 変なところもあります. グラフの下の方なので目立たないですが,1960年からたった2年間で糖尿病患者が2倍になっています.これが本当なら 当時どうして大騒ぎにならなかったのでしょうか? 突然 癌患者が2倍になったらコロナ騒ぎどころじゃないですよね?
しかし,このようなグラフを見かけたら,そのデータの出典が明示されているかどうかをよく見てください. ほとんどの場合 データ元が書かれていないか,あるいはあいまいに『厚労省 調べ』と表示しているだけです.それでは厚労省のデータを見てみましょう.
厚労省の糖尿病患者数調査
厚労省では,毎年 『国民健康・栄養調査』を行っています. 国内世帯を対象に,その世帯全員の身体状況・栄養摂取状況・生活習慣をアンケート形式で調べるものです.
また全国の医療機関を対象に,3年に1回 日を定めて,当日その医療機関を訪れた外来患者,及び その時点での入院患者数を報告させる『患者調査』も行っています.
この2つの調査によって,全国の糖尿病患者数が集計されているのです.しかしながら;
両調査とも全世帯や全病院ではなくて,ごく一部のサンプリングです.
最新の国民健康・栄養調査では,日本全国から抽出された約6,000世帯,約18,000人しか調べていません.
また患者調査では,全国の病院すべてを網羅するのは不可能で,おおよそ国内医療施設の10%ほどを対象としているだけです.
つまり実数把握ではなく,一部の実数を集計して,そこから全国の糖尿病患者数を推定しているのです.
データがあるのは最近だけ
しかも サンプリング調査とは言え,このように全国を対象にして調べるようになったのは 最近のことです. 上記 厚労省のHPを見ればおわかりの通り,糖尿病の推計患者数が明示されているのは1975年以降です.
では,「昔は糖尿病が少なかった」という人は どうやってそれよりも昔の糖尿病患者数を調べたのでしょうか?
糖尿病 今の基準/昔の基準
たしかに1975年以前であっても,糖尿病患者数についての断片的なデータはあります.厚労省の調査ではなく,各地の自治体や医師会が,それぞれが調べた糖尿病患者数を報告していた文献は散見されます.もちろん それらは 網羅的・全国的なものではなくて,ある時点・ある地区だけのスポットデータです. それらのデータを独自の観点で全国の患者数に拡大推定しているのでしょう.
しかし,当時は,医師が患者を診て『糖尿病ですね』と診断する基準は明確ではなかったのです.
一応 1970年に日本糖尿病学会が 『50g又は100gで糖負荷試験を行った際の糖尿病判定基準』(1970基準)というものを発表していましたが,当時は日本全国 どこでも簡単に血糖値を測れるという体制はありませんでしたから,この基準に満たないと糖尿病とは診断できないというものではありませんでした.
では,それまではどうしていたのかというと,
医師が糖尿病だと思えば その患者は糖尿病である
これしかなかったのです.そんな馬鹿なと思わないでください. 診断とは医師の総合判断によるものです.現在でも医師が患者を診て『風邪だ』と思えば,診断書には『風邪』と書かれます. 検査でこれこれの数値が出れば風邪だと診断する基準はありません.それと同じです.
つまり 戦後(1945年)から1970年くらいまでの糖尿病患者数とは,病院に来た患者の中で,医師が糖尿病と判断した人数だけです.
しかも,その頃は健康診断や人間ドックはありませんから,当時の糖尿病患者とは,この記事にも書いたように,口喝・多尿 などの糖尿病が相当進行した人,及び 失明・壊疽などの合併症が出て 病院に駆け込んだ人だけでした.
現在のように,【外見上何の問題もなく普通に社会生活が送れている糖尿病患者】が存在するとは思われていなかったのです.つまり症状が出ていない人は 当時は『糖尿病患者』ではなかったのです.
ですから 当時の推計患者数が現在よりもはるかに少なかったのは当たり前でしょう.
冒頭のグラフは,昔の基準の患者数と現在の基準の患者数とを故意に混ぜこぜにして 糖尿病患者数が爆発的に急増したかのように見せかけているだけなのです.
[4]に続く
コメント
こんにちは、なるほど納得です。私は糖尿病と診断されたときHbA1cが15.0もありましたが、そんな私でさえ糖尿病の自覚症状らしきものが出始めたのはその1年前で、それ以前は特に症状はなかったです(診断時すでに腎症、神経障害があったことからも、何年も前に発症したことは明らか)。
昔は糖尿病患者が少なかったとされていることをもって「昔の食生活は良かった」とは言い切れませんよね。平均寿命も短かったですし。
検査機を使って患者を検査し,その数値を元に 診断するというのは,たしかに客観的です. しかし,昔の医者は 聴診器と触診だけでほとんどすべての病気を診断していました. もちろん その時代には 名医とヤブ医者の差は ひどいものだったでしょうけどね.診療ガイドラインにしても,ある意味では『ヤブ医者撲滅装置』なのですが,反面 医師はディスプレイ画面の数値だけを見て,患者の顔すら見ないという弊害もあります.
そこでこの『糖尿病が爆発的に増えた』というのは,ミステークなのか,それとも何らかの意図を持ってのミスリードなのか,そこを考えています.
「1960年からたった2年間で糖尿病患者が2倍になっています」
これは1961年4月より国民健康保険が全国的に開始され、国民皆保険となったのと関係していると思います
中嶋先生;
ありがとうございます.
それ以外にも,1970年代の『患者急増』は,当時の検査機会の増加や,検査技術の高度化・検査費用の簡易かつ低コスト化などの効果が大きいと思っています.この頃から尿糖試験紙の信頼性が向上したことからスクリーニング精度が飛躍的に上がりました.また1972年の労安法制定で被雇用者の一般健康診断が義務化されたことから,検査を受ける人が一挙に増加しました.
したがって,それまでは見過ごされていた(あるいは 存在が意識されていなかった)高血糖者が『糖尿病患者として認識されるようになった』その増分の積み重ねの歴史だと思います.
もちろん モータリゼーションによる,日常活動量の低下も大きいでしょう.
つまり,『糖尿病患者の爆発的増加』には,実にいろいろな要素が関係しているにもかかわらず,そういった因子を地道に腑分けすることなしに,すべて「食の欧米化」のせいにしてきた,学会の(全員とは言いませんが)一部幹部の姿勢が,日本の糖尿病食事療法を歪めてしまったのではないのか,これが このシリーズ記事の目的です.