マクガバン・レポートは,その科学的根拠が批判されたにもかかわらず,1980年代になると『米国食事ガイドライン』『米国糖尿病学会食事療法ガイドライン』に『高糖質・低脂質食の推奨』という形で浸透していきました.
しかし,この米国からの『風』に,日本の学会は最初は困惑しました.それまでの日本は『米食偏重の日本人の食事は後進的だ.早く欧米の食事スタイルに追い付かなければならない』というスタンスだったからです.
1986年 日本糖尿病学会
食品交換表の第4版補が発行された1983年から3年後,1986年に 第29回日本糖尿病学会が開催されました.このプログラムに『ワークショップ VI 糖尿病食事療法の問題点』という討論会がありました.
第29回日本糖尿病学会総会記録 ワークショップ VI 糖尿病食事療法の問題点
ワークショップでは,5本の講演が行われていて,その記録があります.実際にはこのあとディスカッションが行われたはずですが,その内容は不明です.
- 食事と糖尿病 ― 疫学的見地より ―
- 食事と糖尿病 ― 実験的見地より ―
- 総エネルギー量とその組成をめぐって
- 食品の面からみた糖尿病食
- 糖尿病の病型と食事療法
このワークショップの序文を見ると『食事療法の問題点』と銘打たれているように,それまでの糖尿病食事療法に対して日本糖尿病学会内部でも『迷い』が生まれてきたことがうかがえます.
最近の糖尿病治療理念に基づく食事療法の基本的原則は,適正な摂取熱量と各栄養素の適正な補給(バランスがとれた食事)ということで通常の健康食の原則と変わりはない.
第29回日本糖尿病学会総会記録 ワークショップ VI 糖尿病食事療法の問題点
[中略]
最近米・英・加の糖尿病学会では従来の慣習的な低糖質・高脂肪食を改め,高糖質・低脂肪食が勧告されているが,これにも種々の議論があり[1]
[中略]
これまで栄養素中心に考えられてきたが,1970年代に食物繊維の有用性が指摘され,最近はglycemic indexの概念も提唱されるようになり[2],
[中略]
しかし,それらの試みについては賛否両論があり,いまだ理論的な根拠も十分とはいえないのが現状である.
[1]で述べているのは,マクガバン・レポートの波及により,欧米では『高糖質・低脂質こそが心疾患死亡率を下げる健康食』という風潮が出てきたことを指しています.
また [2]は,主として カナダのJenkins博士らが,『人体で消化・吸収されない食物繊維には,糖尿病薬と同じかそれ以上の血糖値低下がある』ので『Glycemic Indexの低い炭水化物を摂取すべき』という報告[↓]を指しています.
このGlycemic Indexの概念は,それまで 炭水化物/蛋白質/脂質の3栄養素だけを考えて,『どの比率がベストか』というのみの発想であったところに,全く別の成分,それも『消化・吸収されない成分が食後血糖値を下げる』『糖尿病の薬よりも効果がある』という触れ込みだったので,世界の糖尿病医学者は虚を突かれました.
これには,当時の糖尿病治療が手詰まり状態だったことも影響しています.
現在でこそ糖尿病の薬は10種類以上ありますが,1980年代は,まだ糖尿病治療薬と言えばSU剤以外にはない時代[※]で→長期のSU剤投与で膵臓が疲弊して二次無効になる→インスリンという単線コースしかなかった時代でした.
そんな時代に,薬を使わず,いや薬以上の効果が食物繊維の多い炭水化物で得られ,しかもそうすれば心疾患を増やす(と信じられていた)脂質に頼らなくても,カロリー設定が自由にできる,と夢のような話であったため,世界中の医師が注目しました.
[※]厳密には,もう1つ,当時既にビグアナイド(メトホルミン)は登場していたのですが,1970年代にビグアナイドの1種であるフェンホルミンで乳酸アシドーシスが多発したため,メトホルミンを含むすべてのビグアイナドは,実質上 使用禁止状態でした.
実際には,多くの食事で追試を行ってみると,『夢のような改善』は起こらなかったのですが,それでも当時は最先端の魅力を放っていました.
このワークショップの4番目の講演『食品の面からみた糖尿病食』でも,このように批判されています.
最近 Glycemic Indexが注目されているが,混合食として投与した場合には単品投与時ほど効果はなく,過大評価は禁物と思われた.
第29回日本糖尿病学会総会記録 ワークショップ VI 糖尿病食事療法の問題点
Glycemic Indexの著しく低い炭水化物【だけ】を食べると,たしかに食後血糖値は上がらないのですが[※],普通の食事にそれらを添加しても ほとんど何も変化がみられなかったのです.
[※]たとえばこの論文です.
この頃までは 日本糖尿病学会は 迷いながらも まだ冷静であったと思います.
[21]に続く
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