【この記事は 第68回 日本糖尿病学会年次学術集会のレポートではなく,講演を聴講した ぞるばの感想です】
エミュレータ
エミュレータ Emulator というものをご存じでしょうか?
身近なものでは,過去に存在したテレビゲーム機のエミュレータがあります.
昔 よく遊んだ テレビゲームは,現在影も形もありません.しかし,その往年の名機をパソコン上に復活させるのがエミュレータです.
当時のテレビゲーム機は,低速の8bit CPUでしたから,その数千倍の速度とメモリ容量を持つ現在のパソコンで同じ動作をさせるのは造作もないことです.

エミュレータとよく似た言葉にシミュレータがあります.
- エミュレータ Emulator
- シミュレータ Simulaor
どちらも「模倣」が語源ですが,シミュレーションは未知の状態・現象を予測するもの,エミュレータは具体的に特定の対象を(上の例ではゲームボーイを)忠実に真似るものです.
Target Trial Emulation
今回の糖尿病学会のシンポジウム28で こういう講演がありました.

Target Trial Emulationとは聞き慣れない言葉ですが,ハーバード大学のHernan教授が提唱したもので,実臨床の観察研究から あたかもRCT(ランダム比較試験)が行われたかのような結論が得られるというアイデアです.

観察研究とランダム比較試験(RCT)
この記事にも書きましたが,観察研究とは 多数の実例を観察して,その集計結果を解析し統計的に有意な結論を見出す方法です.

典型的な実例では 過去の健康診断の膨大なデータを整理して,『どんな人が高血圧になりやすかったか』などを推論するものです.手法的にも誰にも理解しやすいので,よく行われます. ただし,上記記事にも書いたように,観察研究は バイアス,交絡を排除できません.またここで得られる結論は相関関係だけです.
観察研究の欠点は,分析に用いる指標の選び方によって どんな結論でも出せることです.
- 大阪人は たこ焼きをよく食べる
- 大阪府の〇〇ガン発生率は 日本でもっとも低い
- よって たこ焼きには〇〇ガン防止効果がある
などという例ですね.
一方ランダム比較試験とは,このような観察研究の弱点を可能な限り排除したもので,厳密に選定した 試験群と対照群とを 二重盲検法で比較します.

新薬の候補に 本当に薬効があるのかどうかは,いいかげんな方法で結論付けられたらたまったものではありませんから,臨床試験では この方法が採用されます.というか この方法で薬効を証明しない限り 新薬は承認されません.『新薬を呑ませてみた→効いた!→だからこれは特効薬だ』というサンタ理論は通用しないのです.
容易に想像できるように;
- 観察研究は簡単に行えて,膨大なデータが得られる. しかし相関関係以上のものは見いだせない.そして相関関係は因果関係を証明するものではない .
- ランダム比較試験は厳密な結論が得られるが,大規模に行おうとすると費用が天文学的になる.
百万人単位の観察研究は,たとえば自治体の定期健診結果などで容易に行えます. しかしランダム比較試験はせいぜい数千人が限界です. そこで,Hernan教授が提案したのは,実在する観察研究の膨大なデータを利用して,あたかも厳密なランダム比較試験が行われたかのように仮想世界で作り出してしまう,これが Target Trial Emulationです.つまりは 観察研究とランダム比較試験との 両方いいとこどりを狙ったものです.
実行方法
もちろん そんなうまい話が簡単に実現できるのであればハッピーですが,実際にTarget Trial Emulationを実行するには 数々の制約条件があります. 具体的な注意は スウェーデン/カロリンスカ大学のMatthews AA教授(*)が簡明にまとめています.
(*) HOMAを考案した Oxford大学のMatthews DR教授とは別人です.

Target Trial Emulationの実行はこういう具合です.
まず基になる観察研究のデータから;

仮想的に行うランダム比較試験のデザインを詳細に定義します.たとえば;
- 罹患履歴5年以上10年以内の2型糖尿病患者で
- 年齢は40歳から65歳
- 開始時点までに糖尿病の治療は食事療法・運動療法のみで,過去にいかなる糖尿病薬も処方されたことがない
- 試験群はメトホルミン2,000mg/日を服用.対照群はメトホルミンを服用しない
- 試験期間は5年
- 試験終了は5年経過 又は HbA1cが7%を越えた場合
などという具合です. このデザインに沿って,観察研究のデータから 上記条件に適合するデータを抜き出して アウトカムを評価します.
本物のランダム比較試験の場合には上記に適合する患者を集めて5年間の試験を行うのですが,Target Trial Emulationの場合は,上記条件に適合する実Dataを集めて,試験群と対照群(=メトホルミンを服用しなかった人)に振り分けます.


これによって,メトホルミンの服用効果を評価します.この方法であれば,大掛かりな試験実行体制を構築しなくても,疑似的にランダム比較試験が行えます.
ただし,これだけだといかにも簡単に実行できそうですが,何しろ元データは観察研究のものです.ランダム比較試験のように,試験群/対照群で きっちりと初期条件を揃えるのは至難です. もっとも難しいのは Time Zero,つまり試験開始時点を正確に決定することです. さらに観察研究のデータでは,その人が本当に「過去にいかなる糖尿病薬も処方されたことがない」のかどうかは保証されないことが多いでしょう. ランダム比較試験であれば,試験開始前に対象者本人にインタビューすることもできますが,観察研究では当時の記録に頼るしかありません.
Target Trial Emulationは提唱されてから まだ日が浅いので,どれほどの実力を発揮できるのかは 未だ不明です.ただし,うまくいけば非常に魅力的な手法ですから,このアイデアが発表された2016年以降,『Target Trial Emulationでこういうことを調べてみた』という論文はうなぎ上りに増えています.

その一例として,この報文では;

米国には GLP-1受容体作動薬 セマグルチド(日本商品名:オゼンピック,リベルサス,ウゴービ)の膨大な投与実例データが蓄積されているので,それらを利用して『セマグルチド投与はアルツハイマー病の発症を遅らせる効果があるのか』を Target Trial Emulationの手法によって評価したものです.
この「ランダム比較試験」では,最終的にセマグルチド投与群=17,104人と,その他の糖尿病薬投与群=1,077,657人とを比較した結果,アルツハイマー病リスクを最大0.33に低下(対:インスリン)させることができ,最小でもリスクを 0.59に低下(対:その他のGLP-1受容体作動薬)させたと報告しています.
人数からお分かりの通り,こんな大規模なランダム比較試験なんて 絶対に不可能です. まったく仮想の試験であるにも関わらず,Target Trial Emulationが今大きな注目を浴びているのは,このデータ規模,したがって かなり信頼性の高い結論が(しかも低コストで)得られるのではないか,という期待からです.
第68回 日本糖尿病学会 年次学術集会 感想 【完】
コメント